小星養蚕試験場=源蚕地(げんさんち)

世界遺産の富岡製糸工場は、まゆを加工し絹糸にするための製造(製糸)工場です。

小星養蚕試験場=源蚕地(げんさんち)の通称で呼ばれていた当時の風景写真です。

ここ小星(徳島県美馬市脇町小星)の試験場は、源蚕地の通称・呼称でもわかるように桑畑を試験場周辺
と小星の集落全体に有し、周辺農家が桑で蚕を飼いながら、試験場は蚕の飼育だけでなく、指導員を農家に派遣し協同で
まゆつくりを研究試験を繰り返していたようです。
つまり、富岡製糸の前工程的役割だったのでしょう。源蚕地では、桑畑の桑を蚕に食べさせて飼育しまゆを完成(生産)させていました。

当初は、国・県が合同で養蚕産業の振興のために小星の地に国や県の官舎も備えていたそうです
が、養蚕が斜陽産業になると国は撤退して、県が管轄した(清水宗治さん→S4年生:談)そうです。

また、国が進出した当初は、清水宗治さんの祖父(清兵衛さん)個人の『養蚕飼育の日記』を参考にして
すべての実験・試験を繰り返していました(当時の天候までも清水清兵衛はすべて記録していた)

※桑の種類、蚕の種類、蚕の飼い方、などなど養蚕に関してのまさに源蚕地の役割を担っていたのは事実のようです。
試験場の屋根に煙突のような物がたくさんあるのは蚕の飼育に暖を入れるのでその排気口だそうです。
池が試験場周辺に見られますが、そのため池は通称『野村池』と言って野村地区の水田用のため池です。

その後、国の撤退後は県知事の意向に沿って時々に変遷を繰り返し、試験場の一部を町立岩倉中学校が建てられるまでの仮校舎(1~2年程度)として
も利用されたそうです。

小星の表記について…
文政11年(1828年)にはすでに小星の表記があるものの、一方では明治19年9月21日付け表記に小保子小学校の表記もある。
つまり文化12年には小傍示の表記もあり、などから小傍示、小保子、小星の混在表記をしながら最終的に小星表記に習練されていったようです。

※大字岩倉山719番地→小保子小学校が存在した(明治19年)

私の祖父の義父 中妻伊三郎の葬儀(昭和10年11月19日)の際に清水清兵衛さんが弔辞を述べてくれたようです。その弔意文原稿の下書きが
清水宗治さん宅で発見され私の手元に(コピーをとり原本はお返ししました)

不思議にも中妻伊三郎と清水清兵衛さんは懇意だったようです。

当時の第一蚕室北側です

当時の第二蚕室北側です

当時の第三蚕室北側です